昭和54年3月31日 朝の御理解
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
昨日、ちょうど、四時の御祈念を、おー、ちょっと前でしたが、最後の、千代田さんが、お外の弟さんと、どっか、この近所で、お漬物屋さんをしておられると言う、やっぱり弟さん、やはり、兄弟三人で、んー、お参りになりました。えー、なかなか、信心を進めても、なかなか信心になりませんと言うわけですけれども。もう、とにかく、まあ、良い人と言うでしょうか。あー、いわゆる、真面目なご兄弟。やっぱ、千代田さんに良く似て、えー、なかなか、あー、まあ、いうなら、良い人なんです。仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと言うても、あの、信心しておかげを受けるのは別と仰る。この辺に、まあ、 金光様のご信心の、おー、ま、特異性と言ったようなものを、ま、感じるんですけれども、その、ちょうど、御祈念の終わるまで御理解いただいて、ちょうど私が、ここ、下がらせて頂く時までおられましたから、裏で、お茶でも差し上げて、えー、色々お話を、それこそ聞かせて頂いたんですけれども、んー、千代田さんのお取次ぎを頂いて、毎日お願いがあっています、そのお婆さんが、八十九歳、数えのもう、九十になられる。それが、何とかと言う、やっぱし、癌なんですけれどもね。もう、そん医者がたまがる事は、痛まないと言うことだそうです。そげな筈はないと言われるけれども、まあ、その、痛まんようにおかげを頂いて、まあ、あちらへ行かれるたんびに、千代田さん、もう本当に神様のおかげと言わにゃおられませんと言うて、あの、お礼があっとりますが、その、んー、お母さんが、大変、川魚が好きだと、それもあの、鯉とか鮒のお刺身が好き。それでね、毎朝ね、網を持って、川に魚とりに行かれる。まあ、浪花節かなんかで聞いたごたる話のち言うて聞いたことでした。そすともう、必ずその、やっぱ、鮒を捕ってきなさるそうです。そして、毎朝、お母さんにその、鮒の刺身を。そしてもう、どげなこつがあったっちゃ九十までは殺しちゃならんち言いなさるそうです。もう大事に大事にまあ、されると。まあ、私共は、信心がないですけれども、まあ、そういう生き方、子供やら、孫達が、私が仏様を拝みよると、どうして仏様ば拝まやんのち、その孫達が聞きますち。そら、お先祖様じゃき、拝まにゃ出来んて。どげん言うちゃ拝むのち。お前達は、学校のお勉強が出来るようにと言うてお願いをせにゃならんと言うて、ま、教えます。もうそれでも立派だとこう、生き方だと思うてあるわけです。ね。ですから、その、ま、あーた方のような方に、幾ら信心を言うても。まあ、私だん、信心せんでもおかげは頂く。私だん、信心せんでも悪いことはせんきんと言うような生き方の話を、ま、聞かせて頂いたんですけれどもね。なかなか出来るこっじゃないですよ。もう、九十にもなって、しかも、癌になって、もう、そん、もう年には、あれはないから、もう何時、まあ、言うなら死んでもと言うのじゃけれども、そうじゃない。もう、それこそ、どんな事があっても、九十までは生きとってもらわにゃならん。そのためには、力が付くように、または、母が好きだからといって、もう、毎朝、網を持ってその、川に魚を捕りに行く。何匹かの鮒を捕ってこられると、それでお刺身をして、こう毎日、大変お母さんが喜ばれると言う話でございました。信心しておかげを受けるという事。ね。例えば、ここに大きなグランドピアノがあると致します。ね。ほんならここに、人間がおると致します。ね。人間がそこにあって、そこにピアノがあっても、あっただけで、その、いうならば、素晴らしい音色とか、曲とかと言うものを聞くことも、弾く喜びも楽しみもないでしょうが。ね。そこに人があり、ね。そこに神様があり、その神様と人との交流がです、ね。様々な、いうならば、音符なら音符というものを、土台にして稽古をするところに、素晴らしい曲が、そこから、あー、出てくるわけですけれども。また、段々、それが、名人になってまいりますと、ほんなら、ベートーベンじゃないですけれどもね。自分で、その曲を作る。窓から差し込む月の光を見て、もう、おのずとその、楽譜が出来た。おのずと、いうならば、月光の曲ですかね、と言うような素晴らしい名曲が出来た、と言うようにですね。信心も同じことです。やはり、私共がね、それを習わなければ分かりません。ここで言われる、いうならば、みんな信心があっても、合楽で言う、そのリズムが出るという事やらは、ただ、信心をしておかげを頂く、お願いをするといったような事は、知ってますけれども、日々の生活の中に、天地との交流、一つのリズムが出てくるような、リズムに乗った生き方、信心生活と言うようなことは、知らない人が多いです。合楽で、稽古を段々、なさっておられると、そのリズムを聞き取る事が出来る。そのリズムに合わせた信心生活が出来るようになる。ね。そして、自分でほんなら、作曲でも出来るような、ね。素晴らしい、なら、名曲といわれるような曲が、もう、自然のうちに身についてくる。だから、その喜び、その楽しみと言うものは、やはり、稽古をする者でなからなければ分からない。ね。真がなからなければ、ね。神にうそを言うも同然じゃと。ね。その真という事がどういう事を持って真とするのかと。いうならば、真という事を真理と言うても良いでしょう。ね。真理を、真と言うものは、ただ、あの人は神様のような人、仏様のような人じゃと言うだけではいけん。その人の心根が真と言うわけにはいかん。信心と言うのは、神様に通う心、それを真と言うのである。ね。だからその真とは、真とはと、真の追求をして行くところに、今、合楽で言われる、超法則とか超真理と、これはもう、いうならば、私の、こら作曲によるものだという風に思うのです。ね。もう、習うて、それをこうやって弾くと言うのじゃなくて、ね。私の信心から生まれてきた、いうならば、あー、それが、何時の時代にでもです、ね。素晴らしい名曲が、合楽には合楽理念と言う名曲が残って、しかも、ね。いうならば、楽しゅう、有難う、ね。愉快な信心生活をさして頂いて、あの世、この世を通して、おかげの頂けれる道が、ここでは説かれておるという事になるのです。まあ、そこで、今日のまあ、六十八節をです。今のお話の中から頂かせていただきますとね。ただ、いうならば、辛抱強う参った、拝んだと言うだけでは、いうならば、おかげは頂いても、自分でこう引き出せるような、いわゆる、信心生活が出来るようなおかげは受けられないという事。ね。あの、ようしき風を突いてお参りをさしてもらう、その、いうなら、お参りがね、身に徳が付くようなお参りの仕方でなからなければいけないて。これはね、身に徳を受ける修行だと言うのです。ね。だからもう、日参りが、十年続いとります、二十年続いとりますと言うような人が、やはり御道の信者、どこにでも教会お参りをしますと、まあ、一人、二人ぐらい、そんな方がおられますです。もう、このお婆ちゃんは何十年間、朝参りが続いておられますと。ね。そすと、その人がいっちょんおかげ頂かなかったり、御用が出来なかったりすると、この先生が、どういいなさるかと言うと、まあ、あん婆さんな、毎日参ってくるばーっかりで、もう我が言うこつばかり、もう拝むこつはそうにゃ拝まっしゃるばってんと、そこの教会長先生が、そういう風に言うんです。ね。だから、皆さんでもそうです。はあ、もう、あん婆さんな、そうにゃ終日参ってきなさるばってんが、御用はいっちょん出来なさらんち言いよる、言われるようなこっじゃいかんですがね。雨が降るから、風が吹くから、それこそそれをいとわずに、参っただけではいけないと。ね。そのなかに、身に徳を受ける修行をさせてもらわなければいけないという事。十年参ったら参ったがた。二十年参ったら参ったがたの、言うならば信心が育たなければいけないという事。そして、弾き習うだけではない、自分でも作曲の一つぐらい出来るくらいに、私は信心が進んでいかなければ、でなからなければ、いうなら、有難い、勿体ない、しかも楽しい。もうここには、信心のない人では分からない境地。ピアノならピアノを弾き得ない人。例えば、名曲を聞かせても、それを聴く耳を持たない人にはです。ね。分からない世界が開けてくる。いわゆる、徳の世界。ね。せっかく、いうなら、雨風を突いて、それこそどんなことがあっても、これだけは貫くと言うて、まあ、そういう一心発起をしてお参りをしておられる方達がありますが、そのお参りが、ただ、参ったと言うだけではいけない。はあー、自分のお参りの、お参りの仕方とでもいうか、ね。そのお参りの仕方が、果たして自分のお参りは、お徳を受けるような、ね。身に徳を受けるような修行が、日々出来ておるかという事を思うて見なければいけないと。ね。ただ、辛抱ではなくて、いわゆる、信心辛抱である。なら、信心辛抱という事は、ね。神様参りにかけた辛抱と言うのではなくて、ね。信心を、一歩一歩前進していく。一歩一歩分からせていただく信心。その信心が、いわば、貫かなければならないという事になるわけですよね。世間には、そういうような、だから、今、申しました、千代田さんのご兄弟じゃないですけれども、なかなか信心のお話をしても、私どん参らんでも、別に、えー、困ったこともない。さして悪いことはせんからと言うような人達が、どのくらいあるか分かりません。ね。そういう人達がです、ね。分かられる。それには、やはり、私共が、なるほど信心を頂いて、いよいよ、教えに基づいた、いうなら、信心生活。ね。段々、おかげを頂いて、貧争病のない世界。そして、真善美に輝かんばかりの世界。
昨日は、そんなお話をした後に、せっかくこの人どんが来ましたから、一遍通りこの、見せてくださいとこう言われる。ほれで、さあどうぞと言うて、私が、ずーっと案内して、えー、もうあの、子供たちが使っておる二階から、もう、どっから、隅から隅まで、まあ案内せて見せていただいた、ね。そこに、言うならば、何を感じなさっただろうか。ね。ただ、もう、感心をされただけだったのようでしたけれどもです、ね。私が、ここの、四時の御祈念を終わらせて頂きますときに、んー、私は、御祈念を終わるまでに、まだ、御理解を頂いておられるなら、昔、私が知った方でもあるし、千代田さんのご兄弟でもあるから、お茶の一つもあげようとこう思うて、ご祈念しよったけれども、あー、そんなことはもう、あの、せんでも良いような気がしてきたんです。そしたら、神様が、まあだ後、四時半には十分ぐらい前に、あの、立てという事を頂いて、そうさせて頂いたら、あの、お茶出しのこう握るところですね、こう、あの何ち、あー、お茶、あら何ち言うかの、繁雄さん。上の、茶だしの上にこうすると、あーそう、つる、弦、あのところが無いところを頂くんです。そしてそれに、こう、つけるところを頂いたです。ははあ、あの、これは、弦を付けてあげなきゃいけない。いうならば、あの、神様へのつながりというものを、これが無かったら、お茶汲めんけれども、これがあるとお茶が汲めるようになる。という事は、あの、はは、この人たちは、ひょっとすると信心するようになるのかも分からん。そんなら、一口でも、実際、私の話を聞いてもらうという事のほうが、あの本当だなあと思ったから、十分、まだ前でしたけれども、ちょうど、あちらも御理解頂き終わられたから、あー、直ぐ立ってから、どうぞ、お茶でもあげましょうと言うて、お茶をあげて、まあ、お話を、今のようなお話を聞いたり、また、私の話は、もう殆どしませんでしたけれども、いわば、廻りまわりです、これが、十年の間に出来たつですからねと言う話が出来た。いわば、そういうようなことが、まあ、つり手の代わりをするようなことになるのかもしれません、ね。それに、例えば、金光様の信心を、こうしておっても、私のおかげを頂いておる姿というものを見せるという事がです、ね。その、二人のご兄弟が、何かを感じなさることであっただろう。そして。次にお話をする時には、また、あのお参り、いうならば、仏様だけ拝んどきゃ良いという信心から、次の信心が出来なさるような手掛かりが、まあ、出来るのではなかろうかというふうに思いました。ね。ですから、おかげを頂いておらなければならない。ね。今申しますように、私どもが、金光様のご信心をさせて頂いたら、ね。身に徳を受けて、それこそ、貧争病の無い真善美に輝く、家庭円満、ね。の、おかげを頂いておる。もう、感心されましたのは、えー、二階に参りましたら、あの、光昭達の部屋もみんな、私は、初めてあの、おー、子供達の部屋まで案内したのは、初めてでしたけれども、もう、それを大変喜ばれました。もう、言うなら、沢山な家族がおられますねと言う。それから、若先生の部屋も行く。それから、子供たちの部屋から、んー、で、どの部屋もどの部屋も、何かそこに信心の営みといったようなもの。二階の、新二階に行ったら、えー、その、ちょうど、あのー、何ですか、んー、ここで写しとります、あの幻灯ですね。幻灯を、あの締め切ってから、あー、末永先生が、誰かとこう見ておるところでした。だからそこで、また、それからずーっと廻って降りて、この私の部屋から楽室に参りましたら、あの、上野先生と恵子先生が一生懸命、御神米折をいたしております。もう、四時、五時ごろですからね。普通でいうなら何だけれども、どの部屋にも、どの部屋にも、いうならば、一つの営み、その活動が、しかも生き生きと、ね。信心の過程、信心の生活といったようなものを、どの部屋でもこう見せて頂いたような感じがしたんです。まあ、そういうような事も、いたく感心されたような感じでした。ね。だから、信心させて頂いて、そういう働きが起こってくる過程、ね。そういうおかげを、私共が頂かせて貰うてね。今、申しますように善人である。ね。良い人だけれども信心が無い。いや、良い人ほど信心に縁がないといったような方達もです。本当の信心とはと、いうならば、ここに神様が、おかげ下さらずにおかんと言う、大きな働きがあっても、大きなグランドピアノがそこにあっても、そこに人があっても、あっただけでは役には立たん。それを例えば、弾き習うことの楽しみとか、喜びとか。また、その曲を作らせて頂けるような、あー、力量も、段々出来てくるようになるおかげをです。私共が頂かなければならない。それには、雨が降るから、風が吹くから、ただ、がむしゃらに一生懸命参っておりますじゃ無くて、身に徳を受ける仕様でなからなければならない。ね。その、身に徳を受けて、おかげを頂き現していく姿をです。見て貰うての、いうならば、合楽示現活動に参画するでなからなければならない。ね。
私は、今日の御理解を頂いて、ね。なぜ、その、雨風をものともせずに、いわば、お参りを、信心をしなければならないかと。ね。私共は、あげな真似は出来んと。もう例えば、みんなが思うたり、言うたりする。けれども、それがです、身に徳を受ける修行でお参りをさせて頂いておるならばです。そこに、これが徳の世界であろうかと言う、別な有難い世界が開けてくる。その徳の世界を覗いた時にです。ね。初めて、なるほど、信心ちゃ尊いもんだなあ、信心ちゃ有難いもんだなというような事が分かってくる。それこそ、難しいことはいう事は無い。人にものを言うように、みやすう、いうならば、見せて、聞かせて、そして、お導きが出来るようなおかげを頂きたいと思う。私共の、例えば、日参も、教聴も、ね。いうなら、身に徳を受ける事のための教聴であり、また、日参でなからなければならないと言うことです。どうぞ。
末永静行
2005年10月14日